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【有料会員】越智俊介が語る“セッションマンの哲学”とその履歴書【プロフェッショナルの裏側】
- Interview : Hikaru Hanaki
- Photo : Chika Suzuki
本記事では越智俊介のインタビュー全篇をお送りする。
セッション・ベーシストのキャリアの軌跡や使用機材に迫る「BMG (Behind the Masterful Groove)連載〜プロフェッショナルの裏側」。
今回登場するのは、自身のバンドCRCK/LCKSをはじめ、菅田将暉、中村佳穂、BE:FIRST、bialystocks、TENDRE、TOMOO、UA、斉藤壮馬といった多彩なアーティストのサポートで活躍し注目を集めるベーシスト、越智俊介。北海道で育ち、地元での箱バン経験を経て東京へ。着実にキャリアを積み重ねてきた彼に、いかにして“今の音”を確立したのかを聞いた。
“明日死ぬかもしれないのに、これでいいのかな?”って。
——ベースに興味を持つ最初のきっかけは何でしたか?
小学校に入る前ぐらいからエレクトーンをやっていて、その先生がベースも演奏する方だったので、それが最初に興味を持ったきっかけですね。エレクトーンは足でベースを弾く楽器なので、なんとなく仕組みだったり役割を認識していたんだと思います。

——本格的にベースを始めたのはいつ頃でしょう?
高校1年生になったときに、軽音部のライヴを観たんです。そうしたらすごくうまいギタリストがいて。それが今も東京で活躍している外園一馬さんというギタリストだったんですけど、カッコいいなと思って。
“自分がベースを演奏できるようになったら、この人と一緒に演奏できるかも”と思ってベースを始めました。そのバンドのベーシストもすごくカッコよくて。
——軽音部ではどんな音楽をやっていたんですか?
兄がビートルズが好きで、初めてコピーしたのもビートルズでしたね。そのとき流行っていた、アジカンとかくるりもコピーしていました。あとは先輩がフュージョンっぽいバンドをやっていたので、自分たちもそれを見てカシオペアとかスクエアとのJフュージョンをコピーするバンドもやっていました。
——高校生でフュージョンが流行っていたのはすごいですね。
そうですよね(笑)あとはジョン・メイヤー・トリオとかディアンジェロとかも軽音部で流行っていて。ピノ・パラディーノが好きでしたね。
——ご出身は北海道でしたよね?
小樽です。今思うと小樽は音楽や楽器が好きな人が多くて、洋楽のカバーバンドがたくさんいたり、ライヴイベントもけっこうあって。そういう文化がある街だったんだなって思います。
高校の頃はバンドを組んでバンドコンテストにも出たりしていて、当時対バンしていた中にGalileo Galileiの岩井郁人(k, g)さんがいたり、今でも縁がつながっていますね。
——札幌に出るのは大学進学のタイミングですか?
そうですね。大学は建築学科に入ったんですけど、すぐに辞めてしまいました。
——それは音楽の道に進もうと思って?
はい。親友が20歳のときに事故で亡くなって、それが当時の自分にとってはすごくセンセーショナルな出来事だったんで、人生についてすごく考えたんです。
“明日死ぬかも知れないのに、自分ってこれでいいのかな?”って。それまで音楽で食べていく気持ちなんてなくて、ただ楽しいからやってたんですけど、音楽を本気でやろうと思って。あの出来事がなかったらたぶん今音楽をやってないと思いますね。
札幌のミュージシャンには“24歳で上京するのが良い”っていうジンクスがあって。

——そこから最初に何をしたんですか?
まずは友達と遊ばなくなって、とにかく練習しなきゃと思いました。あとはセッション活動をするようになりました。札幌のすすきのには、箱バンがいて毎晩オールディーズを演奏しているような店があって、そこで箱バンのメンバーとして毎晩働いてました。セッションしながらお客さんのリクエストを聞いたりして。
とにかく楽器を弾かなきゃと思っていたので、毎晩楽器を背負ってすすきのを歩いてましたね。箱バンをしてたお店を昼間は練習に使わせてもらって、のちにカラスは真っ白で一緒に活動するドラムのタイヘイと一緒に練習したり。本当に毎日ずっとベースを弾いていました。
——本当の叩き上げですね。
その頃に、札幌ジュニアジャズスクール出身の年が近いミュージシャンたちにたくさん出会えたんです。トランペットの山田丈造とか、ドラムの石若駿とか。それから札幌には札幌シティジャズのコンテストがあって、それに仲間内で出て優勝を目指すようになって、23歳の頃に優勝できて、それも自信になりましたね。
——上京したきっかけは、何だったんでしょう?
カラスは真っ白がバンドとして上京するタイミングで、もともといたベーシストがバンドを辞めることになって、そこでタイヘイに誘われて加入しました。もともとタイヘイとは一緒に上京しようって決めていたんですよね。
あと札幌のミュージシャンには“24歳で上京するのが良い”っていうジンクスがあって。ギタリストの田中義人さんとかから始まったジンクスだと思うんですけど、ちょうどそのとき自分が24歳だったんです。だから“ついに自分にも来たな”とも思って。
——それまでセッションをメインにしていたところから、ひとつのバンドをメインにする活動になると、だいぶやることも変わりそうです。
上京してからは完全にバンドがメインでしたね。初めてツアーに行ったりしたのもこのバンドだし。僕とドラムのタイヘイはセッション型のミュージシャンだったので、毎回のライヴで同じことをするというよりも、毎回それを壊しにいっているような感じでしたね。毎回何かを発見してライヴで試して、みたいなことをしていたから、楽しくバンドが出来ていましたね。
——余談ですが、“オチ・ザ・ファンク”名義になったのもこの頃だと聞きしました。
カラスは真っ白の先代のベーシストが、ヨシヤマ・グルービー・ジュンという名前で活動していて、僕が加入することが決まったときに、“お前は今日からオチ・ザ・ファンクだ”と言われました。だから自分で名乗り始めたわけじゃなくて、襲名したイメージですね(笑)
今でもクレジットしてもらうときとかに、自分のなかで越智俊介とオチ・ザ・ファンクの使い分けはなんとなくあって、そのバンドの雰囲気に合うほうを使っています。
——今のようなサポート仕事を始めたのはその頃ですか?
カラスは真っ白をやり始めてからちょっとしてから、菅田将暉くんのバンドが始まるんです。映画『何者』(2016年)で共演したのがきっかけで。そのあたりから少しずつ、だったと思います。カラスは真っ白が2017年に解散したタイミングで、CICADAとCRCK/LCKSに加入したんですよ。そこからCRCK/LCKSの小西(遼/sax)にCharaさんのバンドに誘ってもらったり、CICADAの及川創介(k)やカラスは真っ白のタイヘイに誘ってもらったり、そういうつながりが今まで続いているという感じなんです。
——何か大きな仕事がきっかけで、ということではなく。
そうですね。少なくとも僕の経験からは、何か大きい仕事をひとつやったからってそれで仕事が一気に増えるってことはないんだと思います。本当に日々の新しい友達との出会いの積み重ねと、そのなかで“この人おもしろいな、一緒にいたいな”って思えた人と一緒にいれたから、今も仕事ができているみたいな感じですね。
“誰でもいいわけじゃないベース”を弾かないといけない。

——いろんな現場でサポートをするなかで、特に苦労したことって何が浮かびますか?
数え切れないぐらいたくさんありますね。苦労というか、この仕事だと“クビだ”と宣言されるわけじゃないけど、呼ばれなくなる現場ってあるじゃないですか? 気づいたらほかのベーシストになっているみたいな。昔はそういうこともけっこう多くて、それに毎回すごく傷ついていた時期もあったし、逆にヘンに開き直ったりもしていて。
それを重ねるうちに“どういう人と長く一緒にいたいって思うのかな?”と考えるようになって。それを自分なりに考えるようになってから、現場にも定着するようになったし、呼ばれることが増えた気がしているんです。
——それは気持ちの面だけの話なんでしょうか?
プレイの一音一音にも出る気がしますね。僕はサポートとして呼ばれることが多いけど、実は“サポートするぞ”っていう気持ちは一切なくて。“この人のためにベースを弾こう”って思わないようにしているんです。
もちろん大前提としてサポートではあるんですけど、ただ歌いやすいベースを選んで弾いちゃうと、それ以上の存在にはなれないんですね。“だったらオケでいいじゃん”、“誰でもいいじゃん”というベースになっちゃうから。“誰でもいいわけじゃないベース”を弾かないといけないっていうのは常に考えてますね。
——それぞれの時代の、越智さんにとってのベース・ヒーローを教えてほしいです。
それでいうと最初はポール・マッカートニーですよね。それからピノ・パラディーノが大好きな時期もあったし、フュージョンにハマっていた頃は須藤満さんや鳴瀬喜博さんが大好きな時期、チョッパー追いかけ時期とグルーヴ重視時期が高校生ぐらいであったんですよ。でも同時にアジカンとかくるりも大好きでしたね。
——最初からかなり雑食だったんですね。本誌2025年2月号の“偉大なるベーシスト”のアンケートでは、ウィリー・ウィークスを1位に挙げています。
ウィリーは高校生の頃からずっとヒーローなんですよ。たしか最初はダニー・ハサウェイのライヴ盤を聴いて衝撃を受けました。あとその頃、札幌ドームにエリック・クラプトンが来て、そのライヴのベーシストもウィリーで感動したのを覚えています。高校生にしては渋いですよね。
——アンケートではそれに続くのがジャコ・パストリアス、ラリー・グラハムです。
これも高校生の頃ですね。ジャコはCD屋さんで『ジャコ・パストリアスの肖像』(原題:Jaco Pastorius)を見つけて聴いて、すごくカッコいいと思ったけど、“これは無理だ”ってなって諦めました。ラリーはまさにチョッパー追いかけ時期ですね。2015年にはラリーもライヴで観て、歌と演奏に衝撃を受けました。
——ライヴではアップライト・ベースも弾いていますが、どこかで練習した時期があったんですか?
東京に出てきて2年目ぐらいのころに練習を始めたんだったと思います。たしか最初はどこかの現場で”越智くんアップライト弾ける?”って聞かれて、”弾けます”って言っちゃんたんですよ。それで(山本)連くんに泣きついてアップライトを借りて必死に練習したんだったと思います(笑)。でも、そういうことで人って進化するんですよね。今はライヴでは、モノンクルの角田(隆太)くんに借りているチェコイーズを使ってます。
——今日持ってきていただいたベースについて教えてください。
最近レコーディングでよく使うのは、Alleva-Coppoloの5弦ベースと、水色の1964年製のプレベですね。Alleva-Coppoloは本当に優秀なJBタイプで、ブラック・ミュージック系でも使えるし、ロックでも全然使えますね。今日はおもにレコーディングで使う楽器を持ってきたのですが、ライヴではフェンダーのアメリカン・エリートとかアメリカン・ウルトラの5弦もよく使います。
——たくさんサインが入っているジャズ・ベースも気になりました。
あれは高校生の時に新品で買ったフェンダーのアメリカン・ヴィンテージですね。裏のサインは小原礼さんと、伊藤広規さんと、林立夫さんのサインです。

——ジャパニーズ・レジェンド、といった面々ですね。
札幌時代に伊藤広規さんに付いて回らせてもらっていた時期があって。山下達郎さんとか竹内まりやさんのライヴを観に行かせてもらったりしていました。広規さんは教えるタイプというよりは、盗めっていうタイプで全然教えてくれないんですよ(笑)。具体的な理論とかテクニックではなくて、演奏とか音楽の美的感覚を教えてもらったような感覚ですね。
——昨年リリースされた菅田将暉『SPIN』ではアレンジにも参加されたとのことで、そのお話を教えてください。
菅田将暉くんのプロジェクトは、いわゆるスタジオ・ミュージシャンがその日集められて、スタジオに譜面があってそれを演奏して、みたいなことではなく、固定メンバーのバンドのような形でやらせていただいているんです。スタジオでセッションして、そこから曲にして、みたいなこともあるぐらいで。
自分が編曲に参加した「エメラルド」はそれこそセッションから生まれたような曲。作曲にも参加した「もののあはれ」は自分の曲を菅田くんに歌ってほしいなと思って持っていって、そこからバンドメンバーで形にしていきました。菅田くんとは長年一緒に演奏させてもらっていますが、どんどん本人がやりたい音楽が濃くなっていて、今作も本当に素晴らしいアルバムができたなと思っています。
Pickup Discs
菅田将暉『SPIN』(2024年)
越智がサポートするBialystocksや石崎ひゅーいが楽曲を提供し、それらの楽曲でもベースを担当している。オーセンティックなバンド・サウンドを基調に、ド派手なプレイではなく実直なプレイのなかにセンスが光る。(※③⑤⑦⑫以外)
斉藤壮馬『Fictions』(2024年)
菅田将暉のアルバムと対照的に、オルタナティブやシューゲイズ、UKインディからボカロックまで、多彩で起伏の激しいロック・サウンドに傾倒したこの作品にも越智はほぼ全曲で参加。プレイも音色もぐっとアグレッシブに。(※⑧以外)
CRCK/LCKS『総総』
自由律のようなメロディと入り組んだバンド・サウンド、さらにエフェクティヴな音響デザインのなかで、ベースが果たす役割もリズムを、ハーモニーを、メロディをと多彩だ。大黒柱のように、というよりも接着剤のようにバンドを支えるプレイに注目。
▼ 機材篇(会員限定記事)に続く ▼
6本のベースとふたつのペダル・ボード
※近日公開
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